エイドリアンジェラ(Adriángela) – Recordar / Nos tos brazos (EP) 1965

エイドリアンジェラ(Adriángela) - Recordar / Nos tos brazos (EP) 1965

『Recordar / Nos tos brazos (EP)』は、スペインの女性歌手「エイドリアンジェラ(Adriángela)」がパルマ国際歌謡祭で優勝したことで、1965(昭和40)年にZafiroレーベルから第1弾として発売された、2曲入りのシングルEP。

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エイドリアンジェラ(Adriángela) – Recordar / Nos tos brazos (EP) 1965の詳細

タイトル Recordar / Nos tos
歌手名 エイドリアンジェラ(Adriángela)
発売日 1965(昭和40)年
ジャンル ポップス
発売国 スペイン
レーベル Zafiro
フォーマット 7インチシングル・2曲入りEP

エイドリアンジェラ(Adriángela) – Recordar / Nos tos brazos (EP) 1965 の収録曲

  1. Recordar
    作詞:Manuel Clavero 作曲:Carlos Céspedes,Mario Sellés
  2. Nos tos brazos
    作詞・作曲:Eddie Vartan,Georges Aber,Johnny Hallyday

エイドリアンジェラ(Adriángela) – Recordar / Nos tos brazos (EP) 1965について

『Recordar / Nos tos brazos (EP) 』は、エイドリアンジェラが22歳~23歳のときに、Zefiroレーベルから発売されたシングルで、観光をテーマにしたパルマ国際歌謡祭で優勝したことが、カバーデザインに記されている。エンドリアンジェラはこの1965(昭和40)年に、この後合計して8枚ものシングル・EPを発売していて当時の人気のほどがうかがい知れる。

エイドリアンジェラ(Adriángela)のシングル・レコード(ディスコグラフィ)

エイドリアンジェラ(Adriángela)の来歴(バイオグラフィ)

「エイドリアンジェラ(Adriángela)」は1942(昭和17)年、スペインの都市ヴァレンシア(Valencia)のマリア・ホセ・ギーエン・トレス( María José Guillén Torres)生まれ。

音楽好きの少女で、10代の頃は市の音楽学校へピアノを習いに通っていた。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が18歳~19歳の時

1961(昭和36)年、彼女はエイドリアンジェラという名前でマドリッド(Madrid)で歌のコンテストに参加した。彼女の歌はイベロフォン(Iberofón)レーベルのボスの目に止まり、契約のオファーをされた。

①1961: I Certamen de la canción de Madrid

①“Concierto de amor”はこのレーベルから出されたたった一枚の彼女のEPのリードトラックである。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が19歳~20歳の時

1962年

②1962: 4º Festival Español de la Canción. Benidorm

一年後、彼女は同時にEMIへも短い期間所属していた。これは②“Llevan”リリースのためで、この曲は1962(昭和37)年のベニドルム(Benidorm)のソングフェスティバルで彼女がパフォーマンスしたものだ。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が22歳~23歳の時

1965(昭和40)年にZafiroレコード会社へ所属した時、失敗からのスタートとはなってしまったが、彼女は真に自信を持てるようになった。

1965: VII Festival de la canción Mediterránea

④1965: VII Festival de la canción Mediterránea

1965(昭和40)年のユーロビジョン・ソング・コンテストで“Cantares”でスペイン代表になろうという試みは、失敗に終わる。

彼女はコンチータ・バティスタ(Conchita Bautista)にスペイン代表戦の決勝で敗れ、4位に終わった。

1965: Recordar / En tus brazos

③1965: Recordar / En tus brazos

しかし、イエイエガールズはスペインの若者たちにとって、UKやUSのヒットソングを凌ぐほどの大人気だったし、Zafiroレコード会社は金儲けに目がなかった。

La Mitad de la mitad

⑤1965: La Mitad de la mitad / Tu para siempre

エイドリアンジェラは⑦“Siempre hay algo que me recuerda a ti”収録のためスタジオに送られ、このレーベルでの彼女のデビューシングルとして発売。

1965: Ve con el / Me gusta la gente

⑥1965: Ve con el / Me gusta la gente

1965: Siempre hay algo que me recuerda a ti / Las lágrimas de un día

⑦1965: Siempre hay algo que me recuerda a ti / Las lágrimas de un día

この曲は、バート・バカラック(Burt Bacharach)とハル・デヴィッド(Hal David)による“ (There’s) always something there to remind me”の訳版であり、それはイギリス人歌手サンディ・ショウ(Sandie Shaw)をUKチャートのトップへと導いた曲である。

1965: Ve con el / Siempre hay algo que me recuerda a ti / Las lágrimas de un día /

⑧1965: Ve con el / Siempre hay algo que me recuerda a ti / Las lágrimas de un día / Me gusta la gente

2枚目の45レコードである印象的な曲⑧“ Ve con él ”(B面にはファンのお気に入りの“Me gusta la gente”収録)と、合計4枚Zafiroレコード会社からリリースされたEPのうちの1枚も、このころ発売された。

1965: Recordar / En tus brazos quiero olvidar / El mundo / Nunca hay bastante

⑨1965: Recordar / En tus brazos quiero olvidar / El mundo / Nunca hay bastante

③“Recordar”でその年、彼女はパルマ(Palma)のソングフェスティバルを勝ち取り、大きな成功を手に入れた。

この曲はシングルとしてリリースされ、B面にはフランスのスター、シルヴィ・ヴァルタン(Silvie Vartan) の“Dans tes bras (je veux l’oublier)”のカバー“ En tus brazos quiero olvidar”を収録。

1965: El Mundo / Nunca hay Bastante

⑪1965: El Mundo / Nunca hay Bastante

次の曲として選ばれたのは、イタリア曲のカバー⑪“El mundo”であるが、またしてもB面の“Nunca hay bastante”がより人気となった。

エイドリアンジェラは人気があったが、イエイエガールとしては彼女のボーカルスタイルは少しクラシカルすぎたかもしれない。

1965: Recordar / En tus brazos quiero olvidar / El mundo / Nunca hay bastante

⑩1965: La mitad de la mitad / Tu no has comprendido nunca / Tu para siempre /Siempre hay un mañana

1965年にさらに2枚の45レコード⑩“Siempre hay un mañana”と“La mitad de la mitad”を発売した。この2曲は彼女の声に合っていたが、これらを発売したことで、彼女は真にイエイエガールではないと決定づけてしまったかもしれない。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が23歳~24歳の時

1966: Porque nunca se contó / Mi vida esta hecha de amor

⑫1966: 8º Festival Español de la Canción

1966(昭和41)年始めに⑫“He visto un hombre pasar”を発売した後、彼女はスペインのグループ、ロスブリンコス(Los Brincos)とチームを組む。

1967: Un hombre y una mujer

⑬1966: Porque nunca se contó / Mi vida esta hecha de amor

彼らが彼女のために書いた曲⑬“Porque nunca se contó”レコーディングのためだ。多くのファンにとってこの曲は、彼女のキャリアの中でのハイライトではあるが、期待していたほど売り上げは伸びなかった。

12歳のアリシア・グラナドス(Alicia Granados)が優勝した、その年のベニドルムのソングフェスティバルでも、彼女に運はなかった。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が24歳~25歳の時

1967: Un hombre y una mujer

⑭1967: Un hombre y una mujer

レーベルは、彼女には新しい方向性が必要だと判断した。このことは、フランシス・レイ(Francis Lai)作曲、映画ドクトル・ジバゴ(Doctor Zhivago) テーマ曲“Un homme et une femme”のカバーである⑭“hombre y una muyer”が1967(昭和42)年にシングルとしてリリースされたことからも分かる。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が25歳~26歳の時

1967: Tan lejos

⑮1967: Tan lejos

Marea baja / San Francisco

⑯1968: Marea baja / San Francisco

1968: IV Festival del Miño Orense 1968 En Sintonía

⑰1968: IV Festival del Miño Orense 1968
En Sintonía

⑮“Tan lejos”⑯“ Marea baja”⑰“ Gigante”の3曲が次の2年のうちに発売された後、サファイヤは彼女との契約を打ち切った。

彼女はシントニア(Sintonía)レーベルにたどり着く。そのレーベルは、新しい曲へのプロモーションから手を引きたがっていた。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が26歳~27歳の時

1969(昭和44)年のユーロビジョン・ソング・フェスティバルには多くの関心が集まっていた。その前年にマッシール(Massiel)が優勝したことに続き、マドリッドで開催することになっていたからだ。シントニアは、パルマのコンテスト優勝者が、ユーロビジョン出場者を選ぶスペイン決勝に参加する権利があると知っていたのだ。

1969: Buenos Días

⑱1969: Buenos Días

そのためレーベルは彼女に⑱“Buenos días”を歌うことを勧め、そして彼女はパルマに優勝し、もちろんその曲をスペイン決勝でも歌った。しかし彼女はサロメ(Salomé)に敗れ、サロメはユーロビジョンで3人の歌手たち、イギリスのルル(Lulu)、フランスのフリーダ・ボカーラ(Frida Boccara )、オランダのレニー・クー(Lennie Kuhr)と優勝を分け合った。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が27歳~28歳の時

1970: Mira que llega la mañana En Fidias

⑲1970: Mira que llega la mañana
En Fidias

その後、1970(昭和45)年1枚のシングル⑲“Mira que llega la mañana”を最後に、エイドリアンジェラはシントニアを去った。

エイドリアンジェラ(Adriángela)が28歳~29歳の時

1971: Camino del amor / Te mentirán también

⑳1971: Camino del amor / Te mentirán también

彼女は1971(昭和46)年に⑳フィディアス(Fidias)レーベルに参加するが、成功したとは言えず、すぐに辞めることになる。

レコード契約を結ぶことなく、彼女はトレモリノス(Torremolinos)へ移り、ピアノバーを始めた。バーでのパフォーマンスを続けたものの、あえてメディアからは遠ざかった。彼女の昔のレコードに、再注目が集まってはいたのだが。
参照元:Ready Steady Girls

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